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2.医学

(日本で初めての手術をうけた長男)

quadriplegia

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日本で初めての手術(脳性麻痺の神経縮小術)を受けた長男

乗浜たか子(とねっこ保育園)

1 訓練中心の時代

 1987年12月が出産予定日だったのに,87年9月に男,女,男の三つ子が産声をあげました。長男Sは1248gで生まれ,すぐ保育器に入りました。Sは長女,次男よりも一足早く保育器から出られ,私たちの手元に返ってくるくらい順調でした。

 しかし,Sは1歳半になっても歩くことができず,四つ這いの状態でした。つけられた病名は四肢体幹機能障害による脳性小児マヒでした。それからは,長女,次男を保育園に預けて,Sをつれてリハビリや病院へ通いました。リハビリの先生からは「2歳7ヵ月ぐらいには歩行できるのではないか」といわれ,訓練に励みました。しかし,2歳7ヵ月になっても四つ這い,つかまり立ちやつたい歩きはできましたが,自力歩行まではいきませんでした。そして,足の尖足も目立つようになってきましたので,だんだん不安になってきました。そのころ,図書館で『脳障害は治る』という本に出会い,ドーマン法をやってみることにしました。ドーマン法の訓練は大人3人の手を必要とするものでボランティアや近所の人をお願いしての訓練でした。泣き,いやがるSを押えつけてやる訓練は,親にとっては心で泣いている毎日で,ほとほと疲れ果て,1年半ぐらいは続けましたが,もうド−マン法を続けるのは限界でした。ドーマン法のカードによる漢字や国旗や駅名など覚える知的訓練もかなりやって,Sは大人をびっくりさせるくらいよく覚えましたが,本人は今では全部忘れてしまったそうです。

 通院している病院のリハビリの先生からは「Sちゃんは,クラッチ(つえ)を使って学校へ行く方向で訓練をしたい」といわれ,親としては自力歩行を断念するのはとてもショックなことでした。そこで自力歩行に向って訓練を続けられるところをどうしても探したいと思い,いくつかの経過をヘてとねっこ保育園に入園することになったのです。とねっこ保育園の脳性マヒ児療育の経過は,このホームページの私のレポートの前にある志賀レポートに詳しく説明してあります。Sが入園した頃のとねっこ保育園は脳性マヒを訓練で治すということに熱心に取り組んでいたので,小学校に入る前の1年間をとねっこ保育園で育てたいと入園しました。Sの訓練の指導はとねっこ保育園の障害児の訓練を指導していた元養護学校の実習助手をしていた人でした。そしてSはとねっこ入園後,訓練にはげみ,この方法がSにはベストと思いましたので,小学校に入学するのを1年猶予して,保育園の中の訓練にはげみました。しかし,Sの足の尖足と内反の状態は思うように改善の方向が見えないので,埼玉県の小児療育センターで内反と尖足の改善を目的とした筋肉の延長手術(整形外科的治療)をうけました。
 Sが6才の時ので,90日間の入院でした。Sにとって最善の訓練と最善の手術ができたと信じ,1年おくれで,Sは小学校1年生になりました。Sは小学校入学後もとねっこ保育園の学童保育に通い,自分もとねっこ保育園の職員になって,この保育園の障害児保育を支える仕事をしてきました。尖足と内反の手術をしたSの状態は,そんなに変化がなく,尖足も内反も手術前とそう変化はありませんでした。脳性マヒの手術はこういうものと思い,その後の5年間(11歳まで)はとねっこ保育園の障害児訓練(リズム運動など)を続けてきました。

2 日本で初めての脳神経からの手術を受けて
 

 98年2月(Sが11才のとき)に「脳性マヒとは何か」という小規模の学習会が出版社の創風社で開かれました。講師は堀智勝先生(現在,東京女子医大脳神経外科教授,当時鳥取大学教授)で,参加者は障害児の親や保育者たちです。こういう学習会が開かれるようになったのは,とねっこ保育園の歴史と深いつながりがあります。その歴史は志賀レポート(このレポートの前にある)に詳しくありますのでそれを見て下さい。堀先生の話は,今までの脳性マヒの常識を覆す内容で,「脳性マヒは訓練では直らない。脳性マヒの脳神経外科的手術は欧米では日常的に行われ,20年近い歴史もあり,かなりの成果がある」というものでした。てんかん・脳性マヒ・自閉症は世界各国で多くの医学者が研究を進めているわけですから,世界の医学研究の現状から判断して,どのような治療がSには可能か,それを堀先生から聞くことができました。今までの「脳性マヒは訓練中心で」という考え方を否定されたのはショックでしたが,Sにもっと優れた医療があることが分かったので希望も出てきました。堀先生は日本で初めての脳性マヒの脳神経外科手術をするため,当日参加者の脳性マヒ児のビデオを持って,フランスのリヨン大学の脳外科医サンドウ教授のところで1週間にわたって,実際の手術と日本の子どもの手術の可能性を検討してきてくれました。そして,98年6月に堀先生が東京女子医大脳神経外科教授のポストについたので,早速外来に行って,受診したのです。手術の内容は堀先生

のホームページ(創風社のホームページからリンクできます。)に詳しくあります。内反・尖足になっている筋肉を動かしている末梢神経(ひざの裏側の部分にある)を探して,その神経を一部分(0.5ミリぐらいの長さ)を細くして,神経の興奮を押さえるという手術です。2週間の入院で,手術の翌日から歩行練習ができるというのもSはとても気に入りました。夫も日本で初めての手術というので不安がありましたが,S自身が「もっと足がよくなりたい」という気持ちが強かったので,夫婦で手術に挑戦してみようと決断できました。とねっこ保育園は2月の堀先生の学習会以来,脳性マヒ療育方向を医学の成果を取り入れる方向に切り替えてきたので,みんなにも支えられました。東京女子医大脳神経センターのドクターの中でも,「脳を手術する病院に,足を手術する子どもが入院してきた。どういう手術だろう」と注目の手術だった様です。こうして,日本で初めての脳性マヒの手術(右足だけ)をSは受けることができました。3時間の手術で,終了後,ドクターから説明を受けました。「尖足にしている神経は細くできましたが,内反にしている神経はいくら刺激しても反応しませんでした。おそらく,6才の足の筋肉の手術のとき,神経も切られたのでしょう」。親としてはとても残念でしたが,尖足だけでも手術できたので,手術後の次の日からSの歩行練習がとても楽しみでした。

 何日かたって見舞いにいったとねっこ保育園の園長に,Sは「自分は幸せだ」といって,両手をちょうちょうのようにヒラヒラさせて,待ち合い室をかけまわったそうです。2週間で退院できました。膝の裏の末梢神経の4本(長さ0.5ミリだけ)を細くしただけですが,神経は全身つながっているので,Sは体全体の緊張が緩やかに弱まってきて,心も体も解放されつつあることを,毎日の生活の中で実感しています。Sは,7Kmの林道をスキーで滑り降りたり,自転車にも乗れるようになりました。「手術をしてどう変わった?」と聞くと,「両足をそろえて立てるようになったよ。”きおつけ”ができるようになったんだよ」と答えてくれました(写真参照)。
 Sのときは脳性マヒの手術が日本で初めてだったので東京女子医大には堀先生1人しか手術できるドクターがいなかったそうですが,Sの手術後1年半で東京女子医大脳神経センターには数名のドクターが手術をマスターして,堀教授が出張のときでも脳性マヒ手術はおこなわれているそうです。そして,両足尖足の子どもは2人のドクターが右左に別れて同時に手術してくれるそうです。もう100名近い脳性マヒの手術をしているということで,1年半でずいぶん広がりました。私のところにも,「手術をしてどうだった」とこれから手術を受ける人からの問い合わせがあります。一人一人にていねいにSの今の状態を説明しています。訓練中心で脳性マヒに取り組んでいるかたは,この創風社のホームページ,それとリンクされている堀先生,松尾先生のホームページ,紹介されている本などをぜひ読んで下さい。脳性マヒには医療が必要です。その医療は親が学習しなければ選択することはできません。Sのくわしい経過は少しずつ整理して発表し,これから手術を考える人の参考にしていきたいと考えています。手術後は月一回,東京女子医大に通院し,後は生活の中でリハビリをしています。
(とねっこ保育園  取手市下高井1087-24 TEL0297-78-2203)

(左図)小3の運動会 ’89.9手術する前 つま先をすって歩くので靴の先がけずれてしまう 。靴は一ヵ月ぐらいしか持たない。(右図)’99年 手術して一年たった。 右足の内反が手術できなかったので残っているが足があがるようになってつま先を擦って歩かなくなっている。

(左図)’98.8.4 11才  術前,左足を軸にして立つのが癖になっている。静止する時は,左足を軸にしないと立てない。 (中央図,右図)’98.10.5 11才 手術して,まだ傷口に,保護テープがはってある。術後1ヵ写真に比べても,両足をそろえて立てるようになったと本人はいっている。

 

’98.8.4 11才

 術前,左足を軸にして立つのが癖になっている。静止する時は,左足を軸にしないと立てない。

’98.10.5  11才

 手術して,まだ傷口に,保護テープがはってある。術後1ヵ月ぐらい 手術の翌日から保護テープのみ。左端の写真に比べても,両足をそろえて立てるようになった,と本人はいっている。