小熊秀雄への助太刀レポート

向井豊昭



 1 石に蒔かれた詩

 旭川の常磐公園の降り注ぐ木漏れ日の下に、小熊秀雄の詩碑はある。はめ込まれた漆黒の石には、『現代文学』の追悼号に遺稿として発表された詩の一部が刻まれている。

  こゝに理想の煉瓦を積み
  こゝに自由のせきを切り
  こゝに生命の畦をつくる
  つかれて寝汗掻くまでに
  夢の中でも耕やさん

 文字は、詩人の壷井繁治によって書かれたものだ。その一字一字は、まるで理想と自由と生命の種子のように、黒御影の上に整然と蒔かれている。

 壷井は、小熊が参加していた日本プロレタリア作家同盟の中央委員であり、小熊の死の翌年、数々の絵も遺していった彼のために開かれた遺作展の発起人の一人でもあった。死の翌年とは、日本が太平洋戦争に突入した年のことである。


 2 芳賀仭

 発起人の中には、プロレタリア美術家同盟員であった芳賀仭の名前もある。
 彼は、芳賀たかしという名前で漫画も描いていた。自分の漫画の出版元であった中村書店に顧問として小熊秀雄を紹介したことは、『漫画歴史大博物館』(ブロンズ社・80年)の大城のぼるの証言に出てくる。大城は旭太郎という名で小熊が書いた漫画の原作『火星探検』に画を描き、それは後に手塚治虫によって「SFの原点」と賞讃されることになるのだ。
 食うための仕事であったはずだ。結核菌でボロボロになった肺を抱えて、小熊は漫画の台本を書き続けた。食うには安い報酬だったが、小熊は、理想と自由と生命の担い手である子どもの文化をおろそかにはしなかったのだ。小熊の漫画本には、もっともっと目が向けられなければならない。
 最近、小熊の詩集、童話、漫画などが、創風社という出版社から出されている。社長の千田顯史氏の奥さんは、芳賀仭の妹の娘さんなのだそうだが、芳賀仭の画集や、芳賀たかしとしての漫画の復刻本も御自分の会社から出されている。小熊が死んだ日の朝、小熊の息子の焔君が、そのことを伝えるために芳賀のところにやってきたことを、年老いた妹さんはまだ覚えておられるということを、わたしは千田氏からお聞きした。小熊と芳賀には、強い絆があったのだ。

 3 大塚英志の暴論

 これらの事実を無視し、小熊秀雄は「翼賛下にプロレタリア詩人から転向し、内務省の斡旋で『まんが原作者』となった」(『WB』1号・早稲田文学会・05年11月)のだと、昨年あたりから、あちらこちらで書いたりしゃべったりしているのは大塚英志である。
 でっち上げの転向説を土台にして、文学はいざとなれば「『映画』や『まんが』といった動員力のあるメディアの下働きとしての役割」しかないのだ。(『WB』1月)と大塚は論を展開する。展開もいい加減なもので開いた口がふさがらないが、一例として、『週刊金曜日』(06年1月6日)の山中恒との対談の発言を見てみよう。
 「戦後評価される『火星探検』も小熊原作ですが、特徴的なのは統制の一つとしてまんが表現も科学的でなければいけないということで、兵器の描写が非常に繊密になっていくことです」と、これは大塚。これに対して、山中は、「そうなんだよね」と相槌を打っている。
 大塚は、またしゃべる。
 「登場人物は『のらくろ』みたいな、非リアリズム的なキャラクターなんだけども、なかに出てくる戦闘機が、非常に繊密に透視図法的に描かれていて、構図も大胆になっていく。写実的なリアリズムの導入が小熊の指導のなかにあったことが確認できます」
 「なかに出てくる戦闘機」と言うが、『火星探険』には、戦闘機も兵器も出てこない。出てくるのはロケットなのだ。戦争の道具としてのそれではない。宇宙旅行のロケットである。
 主人公は、天文学者の星野博士の息子であるテン太郎。猫のニャン子と、犬のピチクンと一緒に火星へ出かけるのだが、これが夢の中の話なのである。二本足で歩く猫と犬を「『のらくろ』みたいな非リアリズム的なキャラクタ」と大塚は言っているが、どうやら大塚は主人公テン太郎のことを見逃しているようだ。それにしても「非リアリズム的なキャラクター」と、もったいぶってカタカナを多用しているこの手口は、偽ブランドを売るペテン師の手口と瓜二つではないか。『鳥獣戯画』の昔から、鳥や獣が人間らしく振る舞うのは、少しも「非リアリズム」ではなかったはずだ。
 テン太郎、ニャン子、ピチクンは、ロケットに乗って帰ってくる。夢から覚めたテン太郎いわく。
 「僕もう火星の夢はみません。こんどは機械をのぞいてほんとうのことを沢山知るんです」
 この言葉には、『空想から科学への社会主義の発展』というエンゲルスの著作の存在を感じるわたしなのだ。
 国家の「統制の一つとしてまんが表現も科学的でなければいけないということで」「なかに出てくる戦闘機」の「写実的なリアリズムの導入が小熊の指導のなかにあったことが確認できます」の論に戻れば、もう一つ、『火星探険』の画を担当した大城のぼるの『漫画歴史大博物館』の中の証言を向き合わせればいい。
 「台本には、登場人物のセリフだけが書いてあって、ト書きはない。あとはこっちにまかせて、口を出さないって態度でした」

4 子供漫画論

 小熊秀雄は「子供漫画論」というものを残している。その一部を抜粋しよう。

 漫画の教育的意義などは、どこにも発見できない、丸髷の奥様が、乳房を露出して海水浴をしていれば、蟹が泡をふいてそれを見物しているという野卑なものから(略)チャンバラ漫画では人間の胴体の輪切り、頭部の唐竹割り、黒ん坊を虐殺する人種的偏見場面、血シブキの飛散、博徒長脇差、他人の部屋に忍んでゆく破廉恥漢、忍術、空中飛行、等悪材料は枚挙にいとまがない

 当時の子供漫画の状況について小熊はこのように批判を加えているが、加えただけではなく、彼は在るべき漫画の台本を書く。復刻本を手に取ったが『コドモ新聞社』(小熊秀雄漫画傑作集A・創風社・06年)が印象深い。
 夏休み、離れた町の旧制中学の生徒である正夫が村に帰省してくる。正夫の提案でコドモ新聞社を作ることになり、村の子どもたちが集まるのだ。
 『コドモ新聞』の第一号では製粉所の火事の時の旧式な消防ポンプの問題点を取り上げた。「ぜひ最新式のポンプを消防や村の人のために買ふやうに骨折って下さい」と、村長に対して訴えるのだ。火中に飛び込み猫のミケを救ってくれた消防手を讃える記事もある。
 第二号では、三十人の婆さんの大騒ぎの記事。地質調査で村に泊まっていた中学の地理の先生が、水を飲もうとして井戸水を汲み上げたらつるべの底が抜けてしまった。井戸の神様の罰が当たるから神主を呼んでお払いをしろと婆さんたちに詰め寄られ、先生は卒倒をしてしまうのだ。このことを「村の迷信」という題で取り上げている。
 続く第三号は、幽霊探険隊。昔、石炭を掘った後の横穴に幽霊が出るという噂を聞きつけ、コドモ新聞社の社員たちが探険に出かけるのだ。
 「幽霊の正体は握り飯」という題で記事は書かれる。1メートルほどの白いカビが握り飯から生えていて、それが空中で揺れていたというのだ。少年科学探険隊を作ることになったということも書かれている。
 一夏のコドモ新聞社は三号で終わるが、これが十五年にわたる戦争の最中に出されていたということは驚きである。軍人は、一人も登場してこない。村の現実を見つめ、少年科学探険隊へと止揚していくこの漫画で、小熊は、来るべき社会というものを先取りしていたのだ。軍国主義国家が、漫画に要求したという科学とは、全く違う科学なのである。が、大塚英志は、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川oneテーマ21・05年11月)の中で、こう言うのだ。

 小熊はこれまでプロレタリア詩人として彼が書く雑誌がことごとく弾圧されてきたのに、当時「赤本」と呼ばれていた俗悪なまんがの取り締まりの方に回ってしまう。これはやっぱり転向ですね。

 大塚英志は、小熊秀雄の「子供漫画論」を読みこなしていないのだ。小熊が締め括る論の最後の言葉は、こうである。

  子供漫画の卑俗化は、我国の現下の『赤本的現実』の一つの現れであって、漫画だけがその責を負うべきではないからだ。

 「我国の現下の『赤本的現実』」一一。
 そう、「人間の胴体の輪切り、頭部の唐竹割り、黒ん坊を虐殺する人種的偏見場面、血シブキの飛散、博徒長脇差」と小熊が挙げた数々の漫画の場面は、漫画の場面に限られたことではなく、侵略戦争に明け暮れてきた日本の現実そのものだったのだ。小熊は、その現実に対峙して詩を書いた。その姿勢で、小熊は漫画の台本も書いたのである。

5 宮本大人の珍説

 それにしても、大塚英志は、小熊転向説をどこから仕入れてきたのだろう? それが分かったのは、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を読んだ時だった。「宮本大人が指摘していますが、小熊秀雄は、児童読物統制を推し進めた、佐伯郁郎という内務省の担当者によって中村書店に紹介されたようですね」と、大沢信亮との共著の中で大塚は言っているのだ。
 国会図書館に出かけ、宮本大人の論文を探しまくる。それらしきものをようやく見つけた。『はじめて学ぶ日本の絵本史』(ミネルヴァ書房・02年)の中の宮本が担当した第1章、「戦時統制と絵本」の中に、このような文があったのだ。

 内務省警保局の佐伯郁郎や、文部省社会教育局の坂本越郎など、詩人でもあった官僚たちの人脈が活かされ、吉田一穂(金井信生堂)、小熊秀雄(中村書店)といった詩人たちが、「赤本」出版社に入社したり編集顧問を務めたことには注目すべきであろう。

 15ページにわたるこの論文の末尾には、8つの注があり、たくさんの文献名が挙げられている。そして、小熊について述べた部分には、一つの注もないのだ。あの暗い時代、理想と自由と生命のため一筋に生き抜いた小熊が、特高の元締めである内務省の役人のお世話になったなどという新説(実は珍説)を論証抜きで書いてしまうとは、何という荒っぽいガクシャなのだろう。それを鵜呑みにする大塚英志も情けなければ、「そうなんだよね」と相槌を打つだけの山中恒も情けない。
 詩人の吉田一種が、詩人であり役人である佐伯郁郎のお世話になったことは、間違いのない事実である。二人は早稲田で学んでいた。吉田の詩は特高を怒らせるようなものではなかった。二人の死後も、佐伯の故郷である江刺市から視察団が出かけ、吉田のコーナーがある小樽文学館を訪れるという息の長い交流を見せているのだ。「人脈が活かされ」という表現を宮本大人はしているが、小熊秀雄の人脈はここにはない。それにしても、吉田の職も小熊の職も、佐伯郁郎の紹介だと宮本は断定していない。坂本越郎を持ち出すことによって、関係がぼかされているのだ。大塚英志は早とちりをしてしまったのだろうか?いや、三年後の05年5月、宮本は断定してしまう。大塚が小熊を罵りはじめる半年前、小学館の復刻本、天城のぼるの漫画『愉快な鉄工所』の解説で宮本はこう書くのだ。

 プロレタリア詩人であった小熊秀雄が、早稲田の仏文を出て現代詩人としての活動もしていた異色の文人官僚であった内務省の担当者佐伯郁郎の斡旋によって、「赤本」出版社である中村書店に編集顧問として招かれたのは…。

 もう一人のお役人、坂本越郎はどこに行ったのか?邪魔になったのだ。自分の論のつじつまを合わせるため、宮本は内務省警保局図書課という場所を持つ佐伯郁郎を残したのだ。出版社には、にらみが利く最高の場所である。職権を利して、佐伯は友人の吉田を出版社に押しつけた。ならば、小熊も、佐伯の世話とした方が話が合う。宮本大人はそう考えたのだろうが、小熊を世話したのは、権力から遥かに遠い、芳賀仭だったというわけである。

6「ウソ発見誌」の実像

 違う、違う、違うのです!
 あちらこちらの版元に手紙を書いた。反応は冷たく、この国の文化の姿を、わたしは暗い思いで確認しなければならなかった。ある版元から送られてきたFAXの文をお見せじょう。HPには、「ウソ発見誌」という文字を掲げている雑誌である。

 拝啓  時下、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
 いつも『○○○○○』をご愛読下さり、厚くお礼を申し上げます。
 さて、このたびは新年増刊号につきましてのご意見ご指摘ありがとうございます。ご指摘の件につきましては、私の方で再度、事実関係を精査し、見解を示したいと考えております。いましばらく時間をいただければ幸いです。
  取り急ぎ、お手紙拝受のお礼とご連絡まで。

「精査」だとか「見解」だとか、まるで内務省警保局図書評のような言葉である。一月十三日のFAX。「見解」は、いまだに「示してくれない。

7 小熊秀雄の「心の城」

 このレポートの中で、わたしは「プロレタリア」という言葉を何度か使った。大塚英志も宮本大人も同じ言葉を使い、小熊秀雄を「プロレタリア詩人」と言っている。
 小熊の中村書店入りについては、「編集顧問を務めた」、「編集顧問として招かれた」と宮本は述べ、それを受けた大塚は「プロレタリア詩人から転向し」と、表現を強めている。
 「転向? おまえさんなんかに言われたくないよ!」と、あの世の小熊は身を震わせていることだろう。自分自身の挫折を自覚し、小熊は苦しい思いで死んでいったのだ。

 これは自分で発見したことであるが、この詩集をまとめてみると、その詩の中にいかに『夜』を歌った詩が多いかに気づいて、それは日本といふ現実が、私の心の城郭の周囲を、いかに深い夜のやうな状態でとりかこんでゐたかといふことが回顧される。しかし自分は、独断とエゴイズムでその暗黒の中を切抜けてきたなどとは思ってゐない。自分の心の城は崩れたのである。しかもそれはもっとも自然な状態で崩壊したやうに思はれる。

 第三詩集として出す予定だった『心の城』の自序の一部である。1940(昭和15)年、小熊の死の年にまとめられたものだ。それが世に出たのは、戦争に敗れた2年後の1947(昭和22)年――中野重治の編集で三一書房より『流民詩集』となり刊行されたのである。その中には、こういう詩もある。

  馬の胴体の中で考えていたい

 おお私のふるさとの馬よ
 お前の傍のゆりかごの中で
 私は言葉を覚えた
 すべての村民と同じだけの言葉を
 村をでてきて、私は詩人になった
 ところで言葉が、たくさん必要となった
 人民の言い現わせない
 言葉をたくさん、たくさん知って
 人民の意志の代弁者たらんとした
 のろのろとした戦車のような言葉から
 すばらしい稲妻のような言葉まで
 言葉の自由は私のものだ
 誰の所有でもない
 突然大泥棒奴に、
 ――静かにしろ
 声をたてるな――
 と私は鼻先に短刀をつきつけられた、
 かつてあのように強く語った私が
 勇敢と力とを失って
 しだいに沈黙勝になろうとしている
 私は生れながらの唖でなかったのを
 むしろ不幸に思いだした
 もう人間の姿も嫌になった
 ふるさとの馬よ
 お前の胴体の中で
 じっと考えこんでいたくなったよ
 『自由』というたった二語も
 満足にしゃべらして貰えない位なら
 凍った夜、
 馬よ、お前のように
 鼻から白い呼吸を吐きに
 わたしは寒い郷里にかえりたくなったよ
 (『小熊秀雄詩集』創風社・04年より)

 この挫折――これはもう「転向」などという一言でかたづけられるものではない。挫折を描くことは、抵抗だったのだ。小熊は転向などしてない。
 繰り返して言う。大塚英志も、宮本大人も、小熊秀雄のことを「プロレタリア詩人」と言った。わたしは、その言い方だけはしない。そういう概念で小熊をくくることこそ、「転向」などという妄言を産み出してしまうのだ。
 中野重治は、1953(昭和28)年刊行の『小熊秀雄詩集』(筑摩書房)の解説の中でこう言っている。

(略)歩くの詩人が沈黙させられたなかで、また帝国主義的な民族主義の影が詩の世界を濃く染めてきたなかで、病菌に虫ばまれ、糧道をほとんど断たれながら発した彼の言葉は、日本的であると同時にしばしばほとんどバイロン風、レールモントフ風であった。
 生活を歌ったというだけでは足りない。生活へのはたらきかけを歌ったというのでも足りない。ほとんど初めて、あるいはほとんど初めての仕方で、彼は日本の詩に哲学を引き入れたのであった。(略)

8 今を問う詩

 このレポートの冒頭に記した常磐公園の詩が、遺稿の一部分であるということを既にわたしは書いた。それに続く一部分を最後に記して、レポートを終わろう。

 さればこの哀れな男に
 助太刀するものもなく
 大口あいて飯をくらひ
 おちよぼ口でコオヒイをのみ
 みる夢もなく
 語る人生もなく
 毎日ぼんやりとあるき
 腰かけてゐる
 おどろき易い者は
 ただ一人もこの世にゐなくなった



向井 豊昭:1933年生。96年, 62才にして『BARABARA』で早稲田文学新人賞を受賞。奇妙な文体とシュールな物語、真摯な問題意識意識のアンバランスが注目を集め、当時の「早稲田文学」としてはきわめて異例に文芸時評の対象となった。74歳の今も旺盛な創作活動を続けている。
出所:『WASEDA bungaku FreePaper』より一部引用、改訂。

小熊秀雄についてはこちら→『小熊秀雄童話集』『小熊秀雄詩集』『小熊秀雄漫画傑作集』