随想1

“偽りの社会像”を超えて!                  

有江 大介

 創風社の千田さんから最近、日本の社会科学では旧ソ連・東欧経由のマルクス主義はもう死んだかもしれないが、教育や医療運動の中では本家が潰れたのにまだそれを墨守している人々がいる、熱意とは裏腹にそうした人びとのやることがかえって現場に混迷と、当事者に不利益をもたらしている、というようなことを聞かされました。そして、私に、ここ15年、ヨーロッパに数え切れないほど行って色々見聞してきて、あの「社会主義」体制がどんなものだったと言われているのかをよく知っているのだから、まずはそのことについて何か書いて欲しいと言いました。そこで、ヨーロッパでの経験をベースに、以前書いた文章も参照しながら以下のようなものを書いてみました。

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 今の日本の大学には、20年程前とは比べものにならないほど、様々な国からの、特に発展途上国からの多くの留学生が学部生、院生として在学しています。私は留学生委員会の委員長という仕事柄、留学生と話す機会も多く、時に旧ソ連・東欧の政治体制やイデオロギーのことが話題になることがあります。これまでの経験からはっきり言えるのは、誰一人としてあの体制やそこでの社会状況、その体制を支えた理念に共感を持つ者がいない事です。とりわけ、話す機会のあったブルガリア、ルーマニア、ポーランドなど旧東欧圏の留学生からは、かつての体制をいわば“偽りの社会”と見なして、二度と後戻りをしてはならないという強い共通の意思が感じ取れました。また、実質的に強制されたロシア語とともに、幼少期に自覚なく受けた粗野な反映論的認識論に基づく画一的な「社会主義」教育なるものは、今の彼らから振り返れば、個人の内面からの自由な発想や個性の発揮を許さなかった、思い出したくない汚点として心に残っているようです。

 ただし、この強い拒否感は必ずしも社会主義一般を対象にしているわけではありません。あくまでも1930年代の旧ソ連に確立しほぼ半世紀の間存在した、特定の「社会主義」を指しています。この社会制度の特徴は、一般に、生産手段の社会的所有(その実、国家所有)、計画経済(その実、非能率な指令経済)、プロレタリアートの独裁(その実、共産党の支配)の3点にまとめられています。社会生活のレベルで見ても、旧ソ連や東独を典型とするこの社会が、文化や教育の領域での思想や表現の自由もなく、国内パスポート制度のもとで、ヨーロッパ中世の封建時代と同様に移動の自由も存在しないという、極めて抑圧的で狭量な開発独裁的な体制であったことは周知の事実です。そうした体制の中に実際に生活していたからこそ、旧ソ連・東欧圏からの留学生の拒否感がいっそう強いわけです。

 問題なのは、旧ソ連を経由したいわばコミンテルン型の「社会主義」の中で示された理念や経験を、今なお目指すべきモデルであると思い続ける傾向が、日本の学問領域や実践活動の一部に残存しているという、極めて特異な事実があることです。確かに、日本の場合、この「社会主義」像とそれを記述する用語がその内実を検証することなく、経済学、法学、歴史学、教育学などの多くの学問分野や社会運動において、研究内容や研究姿勢、あるいは運動の「正統性」を外部から裁定する権威的な規範の役割を果たしてきたという歴史があります。たとえば、旧ソ連社会については、ある時期、一般市民から知識人の中に至るまで“労働者の祖国、ソ連”、“社会主義は平和勢力”というある種の“プロレタリア信仰”に由来する検証されないスローガンが跋扈していたことがあげられます。また、「社会主義研究」の名で、伝えられた官製情報の受け売りや輸入された「教科書」の祖述はなされても、それらを超える独自の社会主義像が彫琢されることは日本ではついぞありませんでした。加えて、1970年代までの国際情勢の変化の中で、「ソ連が駄目なら中国が、中国が駄目ならヴェトナムがあるさ」という形で、社会主義を標榜する政党からアカデミズムに至るまで、自らの主張の「正統性」を担保するために頼る権威を転変させたことも、そうした状況をよく反映していると言えます。

 1989年の壁の崩壊後、旧ソ連や中国を社会主義と見なして主な研究対象としていた学会や研究者は、対象自体が消えてしまって悄然としたり、とめどない市場経済化に呆然としたり、近隣にある半島国家のあまりの封建王朝的実情に暗然としたり、思考停止状態に陥ったままです。こうした経緯は、第二次大戦前から戦後の高度成長期までの日本社会の歪みを批判しようとしたとき、ほかならぬ「講座派に代表されるマルクス主義が、半封建制の一掃、近代化という目標をかかげ、[西欧近代]市民社会を形成した啓蒙思想に事実上代位すること」でその役割を果たし、アカデミズムに浸透した(伊東光晴編著『日本経済分析の再検討』広文社、1966年、19頁)という独特の歴史によるところが大きいと言えましょう。要するに、日本で受容された「社会主義」とは、「ロシアの啓蒙インテリゲンチャのラジカリズムがマルクス主義を受容したもの」としてのスターリン主義(中山弘正編訳著『ペレストロイカと経済改革』岩波書店、1990年、306頁)ということになります。もちろん、ここにはスターリンだけでなく、トロツキーやレーニンも含まれることはいまや常識です。今後社会主義を標榜するなら、留学生の状況を見るまでもなく、1917年革命の意義について根本的に再検討することなくして、そこを出自とするイデオロギーや理念はもはや生き残るすべはなく、それを墨守する人々は社会の現実の動きを見ることができない化石化した保守派として静かに消えてゆくのみかと思います。

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 私は、1985年に研究の関係でヨーロッパに通い始めてから、英国への2回の留学(1991‐92年、1999‐2000年)を含めて延べ14ヶ国、50回に近い渡欧経験を持つ事ができました。中でもペレストロイカ期の旧ソ連、壁崩壊直後の旧東ドイツ、経済復興後のハンガリーなどは特に強く印象に残っています。

 数十年前に向坂逸郎がソ連の科学アカデミーの招待で大名旅行をして帰った後に、“ソビエトはひどい所だという人もいたが、そんなことはない。私は実際に見てきたが、物は豊富で人々は生き生き生活していた”と話したという有名な話が残っています。この悲喜劇は論外としても、今なお「民主××」と称する領域では、本質的にはこの逸話とさして変わりない、あの時代のあの体制への無反省な拝跪が生き残っているのは確かです。では、実際にはどのようなものであったのか、あるいはどのようなものであったと考えるべきなのかという点について、幾つかの自分の経験を紹介したいと思います。

 忘れられないことの一つは、旧東ドイツ、ハレのM大学で経済思想史・社会思想史を教えていたT教授との2度にわたる会話です。T教授のスミスについての著作は日本語にも翻訳されています。そのT教授に、1990年にカナダ・バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学でのアダム・スミス没後200年記念シンポジウムで初めて会った後、翌1991年の夏と1996年の夏に英国での留学と資料調査の合間にハレを訪れ、それぞれ併せて延べ半日ほど、古い大学町を歩きながら、レストランでビールと食事を摂りながら率直な話を聞くことができました。「統一」よりも実質的には「併合」であった東西統一の実態から始まって、第2次大戦直後からの旧体制の評価、その中での大学人としての自分史、とりわけ統一後の大学再編の中での60歳を過ぎての再雇用拒否処分とそれに対する孤独な裁判闘争のことまで、生々しい実体験を聞くことができました。

 教授によれば、第2次大戦終了直後からのドイツ再建に時期に、一青年として「社会主義」の理念に共感し、統一社会党(共産党)の党員として積極的に社会主義建設の運動を担って行きたいと純粋に思ったとのことでした。党員でなければ大学に職を得られないというノーメン・クラトゥーラ制のもとで、教授は院生時代を経て職を得、大学の行政にも携わりながら研究に勤しんだわけです。抑圧的・権威主義的体制の中、知識人として何をやってきたのかという問いかけについては、弁解はしないが、しばしば見られた財政の実情を無視した政府の不合理な政策等に対しては、自分も含めて大学人が協力して警告的提言を行ってきたものの、実効はなかったと答えてくれました。「東ドイツ」に留まるという選択をする限り、それ以上他に何ができたであろうかという趣旨のことも同時に話してくれました。

教授は、統一後の旧西ドイツの大学に合わせるべく旧東側大学すべてでなされた組織とカリキュラムの根本的改編[liquidation] の過程で1993年までに失職したわけですが、その際のエピソードとして、大学が再雇用を拒否する法的根拠を問う裁判を教授が起こしたこと、そこで判事が最後に、「私には、“根拠は無いが時代のせいだ”としか言えない。あなたの今後の人生に幸多いことを祈る」と述べたことを紹介してくれました。まるで明治維新期の「これもご時勢だ」を思わせる状況であったようです。この再編過程では、理工・技術系を除いて、役に立つと判断されたもの以外の人文・社会科学系の研究者の多くが、教授同様の人生の転変を見る羽目になりました。結局、やっていることが少しでも旧来の「社会主義」にかかわりのある分野や研究であると認定された者は、教育・研究職から徹底的に排除されたわけです。もっとも、それも自業自得と言えなくもありません。哀れをとどめたのが、党公認の政治思想を講義していた、教授の元同僚の例で、失職後に生活のためにようやく獲得したのが博物館の警備員で、ただただ失意のうちに日々建物の一角でひっそりと立っているとの事でした。

91年に最初に訪れた時には、大学のT教授の研究室には秘書もおり、その書棚にはWerke版のマルクス・エンゲルス著作集(日本語版『マルクス・エンゲルス全集』の底本)が並び、他にぺティ、スミスをはじめとした『経済学批判』に言及されている労働価値論史上の理論家たちの著作が目に付くなど、まるで一昔前の日本の「マル経学者」の研究室と見まがうばかりの様子でした。また、中心部に近い静かな住宅街に、教授職に付随している、広い庭付きの、くすんではいるが広いメゾネットタイプのテラス・ハウスの自宅に住んでいました。それが2回目に訪れた時は、郊外の狭い住宅に引っ越しており、今は経営コンサルタントで生計を立てている、車も持てているのでそこそこの生活と言っていいだろうと教授は述べておりました。私はこの個人的な体験の中で、1917年の革命とそれ以降の70数年の壮大な社会的実験の失敗と一つのイデオロギーの終焉という、旧ソ連・東欧圏の人々が苦闘の中で自ら選択した時代の大きな流れを実感せざるを得ませんでした。

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 2つめの忘れられない記憶は、2度目の英国留学の時に、ベルリンの壁崩壊10周年を記念した多くのTV特別番組(1999年11月半ば頃)を見たことです。回顧番組あり、ドキュメンタリーあり、英独共同企画あり、様々でしたが、イギリスにとって場所が近く影響が大きく、またユーロ採用の賛否をはじめ大陸との関係をどうつけるのかが議論されている折でもあって、いずれも極めて真面目で真摯な番組ばかりでした。

まず旧ソ連がどう変貌したかについては、ロシアン・マフィアのリーダーと目される人物の動静とインタビュー特集が興味深いものでした。西側の対応組織と提携しつつ展開された武器や麻薬の売買とテロによって莫大な利益を蓄え、政治的にも影響を持つに至った人物が「我々は合法的な事業を行う中で成果をあげてきただけだ」と落ち着いて質問に答える姿は、現在の資本主義ロシアの暗部を見せつけられたという感じでした。新体制下でのいわゆる「勝ち組み」は、機敏に時代を捉えた有能な起業家を除くと、生き残った官僚、旧国営企業の幹部、マフィアで、それ以外の一般国民は「負け組」だとの評もある中で、きらびやかに変身したモスクワの町並みとショッピング・センターを小奇麗なファッションで颯爽と元気よく闊歩する若者たちの姿を見るにつけ、ここでもやはり次のことを思わざるを得ませんでした。旧体制は人間性のある部分を抑圧していたに違いないという確信と、「『社会主義』とは資本主義から資本主義への辛く長く苦しい過程だ」という有名なアネクドートです。今後いかなる困難に遭遇しようとも、福祉の面でかつての体制が手厚いものがあったとしても、ロシアの国民は旧体制に戻る選択をすることはないということです。

もう一つ記憶に残る番組は、旧東ドイツの秘密警察(シュタージ)体制のドキュメンタリー番組です。どのように全体の情報管理と個々人の動静調査によって警察国家が維持されていたのかを、「危険人物」視されていたある歴史家の当局による調査記録を発掘する経過と、当時秘密警察の末端で監視・密告・尾行その他を行いながらインフォーマント(情報屋)としての仕事をしていた一人の男性の告白を取材することで赤裸々に暴いていました。

 最初のケースで、誰が本人の知らないところで「危険人物」と見なされ要調査対象になるかは、次のようなプロセスによってでした。まず、公共図書館の書籍貸出しリストが出発点です。このリストが定期的に秘密警察によって調査され、「危険」な書物を借り出した人物がピックアップされます。危険な書物とは少しでも「西側」の文化や哲学、思想にかかわるような内容のものです。むしろ、当局が「危険人物」を炙り出すために意図的に「社会主義」体制にそぐわないと思われる文献を沢山の「無害」な文献の中に配架しておいたと推測されます。そこから特定された人物に尾行がつき、会話の盗聴、隠し撮りなどあらゆる手段で情報が収集されます。実は、番組取材班の努力と偶然によって、次のケースのインフォーマントが実際に情報収集の対象にしていたのが最初のケースの歴史家であることがわかり、その双方からの立体的な取材となりました。秘密警察のそうした個人情報ファイルの多くは壁崩壊に前後して焼却されたのですが、それでもかなりの量が処分を免れて残り、この歴史家のファイルも調査と取材の努力の結果当の本人が見るに至ったわけです。彼は、自分が隠し撮りされた写真を見て驚きを隠しませんでしたが、私が驚いたのは、インフォーマントの男性が自分と同じような仕事に従事していた人間は非常に多く、ほぼ

10人に一人がそうだったのではと言ったことです。要するに、一般国民の一割が組織的な情報提供者でした。一体こういう社会はどのような理由や言い訳をつけても肯定されるべきものではないでしょう。戦前日本の特高体制、隣組相互監視体制以上の警察国家であったと言うべきです。これはもちろん、よく知られているように旧ソ連・東欧国家に基本的に共通する状況でした。

 上のインフォーマントの場合、放送局の説得によって自分の行状を告白し取材に協力しましたが、番組ではその結果すべての友人を失って、孤独のうちに日々生活しているわびしい状況が映し出されていました。実はこうしたケースは珍しくなく、事態が明らかになった時、監視・密告者が自分の妻や夫や子供や友人であったことに愕然とする無数の事例があったわけです。しかし、ここで覚えておくべきは、組織の末端にいた人間の状況とは逆に、こうした一億総監視・密告体制を統括していた当時の秘密警察の責任者がごく軽い罪に問われただけで、旧体制時代に蓄えた資産の上に今でも優雅な生活をしていると言う事実です。番組の中で、この人物は、「上の命令に従っていただけで私に責任は無い」と答えていました。これを見ながら、実は、ある日本のマル経・原論学者が「ポーランドが崩壊したのは、政府が西側情報流入の規制に失敗したからだ」と簡単に断言したのを思い出していました。彼の頭の中では「社会主義」は何がどうあれ正しい、なぜならそれが「社会主義」だからだ、で凝り固まっていたのです。しかし、こうした警察国家体制によってのみ維持されていたような体制が果たして守るに値する社会と言えるのでしょうか。

 数ある番組の中で最も優れていたのは、近代とは何かについての評論の翻訳もある気鋭の歴史家・ジャーナリストのマイケル・イグナティエフによる、チャンネル4のドキュメンタリー「自由の試練」(1999年10月31日放映)でした。彼は10年前の壁崩壊直後にも旧東ドイツを取材して何がその原因であったのかを、人びとの生活観、思想、イデオロギーの面から探ろうとしていました。その彼が、10年の経験について貧富差の拡大、排外主義の蔓延など多くの問題点を指摘しながらも、「1989年の価値を信じたい」と述べ、その時示された自由、民主主義、市場、人間の権利の「4つの価値」を再び挙げました。つまり、これらの価値が欠落していたのが壁崩壊以前の旧ソ連・東欧社会であり、それらを実現しようとしたのが東欧の革命であったと言うわけです。私はこの見解は間違っていないと思うし、私の15年の経験からしてすべての東欧・西欧の庶民から知識人に至るまでの共通の了解と言えると思います。言い換えれば、「社会主義」という名の旧体制に社会政策的にいくらよい面があったとしてもそれは民衆によって捨て去られ、いかに多くの問題点があっても上の「4つの価値」の名において資本主義が希望とともに選びとられた、ということです。こうして、しばしば起こる歴史の皮肉の意味を、イグナティエフは手際よくまとめてくれました。残念ながら、壁崩壊10年の時に日本にいなかったので、日本で何をどのように総括した意見が示されたかは定かではありません。しかし、旧ソ連・東欧の「社会主義」の経験を何らかの意味で受容していた学問や運動にかかわっていた人々は、なぜそれが当事者によって拒絶されたかについての根底的な問いかけなしには、次に進めないのではないか、ということだけはいえると思います。もちろんこれは、いまだに十分なされていないという判断があるから言うわけです。

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すでに大分前に別のところで書いたことですが(「社会主義の崩壊と日本の学問」『神奈川大学評論』21号、1995年)、マルクス主義的社会主義というのは19世紀に生まれた200ほどに分類できる社会主義の一つに過ぎません。そして、これらに共通する最大の要素は、19世紀に入ってヨーロッパが急速に産業社会化したことに対する批判と拒絶であると思います。国や時代状況の違いに応じて、資本主義の経済合理性に対するロマン主義として現れたり、逆に経済の恣意性・無政府性に科学や計画を対置したり、あるいは貧富の格差を搾取の結果であると糾弾する取得の平等性の主張として現れたり、個人の個別性ではなく社会の共同性を志向したりと、様々に現れてきたわけです。言い換えれば、19世紀においてマルクス主義を含めて社会主義なる思想運動は、現状への、資本主義への批判精神の最大の宝庫でした。現代社会には同じように批判されなければならない問題が山のようにあるはずです。本当は、自由主義的保守主義が「小泉革命」などのスローガンでぬくぬくと台頭できる状況にはあるはずはありません。もし、そうなったとしたら、有力な対抗思想・対抗イデオロギーがない事の証明だと思います。日本の社会主義思想について言えば、少なくとも社会科学の領域では、マルクス主義や社会主義の研究の総体が1970年代中葉からはっきりと衰退の兆しを見せ、すでに90年代にうちに日本の社会科学研究の中で完全にその知的ヘゲモニーを失いました。個人の中に残存していても、もはやそれは意地・義理・面子のレベルの問題に過ぎないでしょう。現状批判の視座は、そうした旧来の硬直した思考から自由になったうえで、事実から出発し異論を持つ他者にも常に開かれた姿勢から出発することで初めて形成されるものだと思います。

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 東欧の友人に、M君というプラハに住むチェコ人の30代半ばの若い広告業の起業家がいます。彼とは、1996年の夏にハンガリーのブダペストからオーストリアのウィーンに寄った後、チェコのプラハに向かう列車のコンパートメントで偶然隣り合わせたのが知り合うきっかけでした。すぐに打ち解けて、プラハのホテルを探してチェック・インした後、待ち合わせて夜中までビールを飲みながらいろいろの話をしました。彼は、チェコ語、ドイツ語、英語、イタリア語そしてフランス語を駆使しながら西側から入ってくる商品の宣伝プロジェクトを企画・立案しています。今もe-mailのやり取りをしています。もちろん、彼のような若い生き生きとした起業家は、旧体制のもとでは生まれようもありません。彼自身、そのことを十分に自覚していました。同時に彼は愛国者でもありEU加盟後の自国の将来について真摯に考えていました。端的に、旧ソ連・東欧的発想や思考は、チェコ社会の発展を実際に担っている若い世代には既にその影も見当たりません。これが実態です。

 わが国のかつてのマルクス主義的社会科学も、「民主的」と称される教育実践や社会運動においても、何がおかしかったのか、おかしいのかを率直に自己検証しつつ、化石化した旧来の理念やイデオロギーを払拭する必要があるのではないでしょうか? そうしないと、「マルクスの社会主義の理念を最も純粋に保持し実現しているのは北朝鮮だ!」という一時期囁かれた嘲りを笑うことが出来なくなるのではないでしょうか? そして、周囲への影響力を持つ事が出来なくなるのではないでしょうか?(了)

  

参考 『労働価値論とは何であったのか』

   『労働と正義』

   『社会科学とは何か』

   『ジェレミー・ベンサムの経済思想:欲求・功利・公共性』