書評コーナー 1  1. 2. 3. 4. 5. TOP

05年6/9日更新 CDMによる環境改善と温暖化抑制(日本鉄鋼協会会報『ふぇらむ』)

05年6/6日更新 しょうちゃんの日記(赤旗05/6/5)

05年3/12日更新 芳賀たかし漫画傑作集 愉快な子熊・坊やの密林征服
         
(『石巻かほく』 05/3/11)

04年12/1日更新 「縮小」時代の産業集積(中小企業家新聞04/12/5)

04年11/25日更新 子どもの絵は心(『美育文化』2004 vol.54 NO.6)

04年11/17日更新 経筋療法(大阪職対連『労働と健康』、評者 細川汀)

04年9/24日更新 東北という劇空間(『河北新報』04/9/6)

04年9/16日更新 市民社会の教育(季刊『人間と教育』43)

04年8/11日更新 教育基本法と科学教育(『日本の科学者』vol.39)

04年7/13日更新 東北という劇空間(『陸奥新報』04/7/9)

04年7/2日更新 現代の商店街活性化戦略(『経済』NO.107)

04年3/17日更新 反戦アンデパンダン詩集(韓国『詩評』2004春号)

04年1/5日更新 社会教育の現代的実践』(月刊社会教育 2004/1)

04年1/5日更新 反戦アンデパンダン詩集(東京新聞03/12/28)

03年11/27日更新 ファッション産業論

03年10/30日更新 精神の哲学者ヘーゲル

03年10/16日更新 反戦アンデパンダン詩集KJMの部屋内)

03年10/15日更新 反戦アンデパンダン詩集KJMの部屋内)

03年9/11日更新 反戦アンデパンダン詩集

関連書評「芳賀仭画集」

小川雅人・毒島龍一・福田敦著
『現代の商店街活性化戦略』

永山利和

「全国商店街実態調査」による商店街の繁栄・衰退状況を見ると、繁栄が2.2%、停滞が52.8%、衰退が38.6%であるという。ほとんどの商店街(その多くは中小商業の集合体)が停滞・衰退に陥っている(P117)。商店街を取り巻く社会・経済環境は、少子・高齢化、行財政再建、雇用流動化、福祉見直し、コミュニティ劣化、治安悪化、ごみの多産・資源浪費等の重層的に問題を抱えている。この条件下で「商店街が地域社会に於ける存在意義を再発見するための機会として前向きに捉え行動するか、消費需要が縮小することを懸念して、あるいは脅威として後ろ向きに捉え行動しないか、(によって)……存在意義が規定される……地域社会との関わり方を後ろ向きに捉える限り逆風下にある多くの商店街に光明がさすことは考えにくい。地域社会と共に社会的な課題を解決していく主体の一つとして商店街の役割を考えていくことこそが重要になる」(P128)。これが本書のモティーフである。
 著者たちは、商店街の本質的規定(第一章)に始まり、その実質的担い手の再生・活性化が必要な商店街の実態、旧型商店街の衰退と新興勢力の台頭、ハイタッチ化への接近などに対する意味を問い(第二章)、ハード(アーケードから大型店の立地も視野に入れた商業機能整備)に、多様化した顧客ニーズ時代の到来を確認し(第三章)、これを歴史的に位置づけるために"まちづくり三法"を中心とした政策形成と中心市街地商店活性化政策における政策認識の大きな転換を、TMO(Town Management Organization)分析における現代的商業経営展開と関連づけて論じている(第四章)。加えて、現代商店街は、様々な類型を取って展開しているとともに、各種の共同事業が地域社会協働と結んで展開し(第五章)、地域活性化に向けて各種の地域組織および行政との多様な連携を構築し(第六章)、地域商人育成、地域商業リーダー養成が過保護体制から組織相互のギブ・アンドテイク関係で進むべきことを指摘し(第七草)、地域社会の変容と多様なコミュニティビジネスとの連携や地域通貨の活用を視野に入れ、商店街が地域社会・経済のプラットホーム化を目指し、地域再生と同軸化して(第八章)、地方分権が進むなか、地域商業振興に地方自治体と手を携える可能性と重要性を訴えている(第九章)。  
 日本の商業、とくに小売商業経営とその集積である「商店街」、個別企業が集積した商店街、"商店街形成元素"である諸経営が直面する様々な困難があるが、これを嘆き、政策不足・不備を批判するだけでは再生できないと断言する。そうではなく、厳しい変化を新たな課題への挑戦機会と捉え、前向きに福祉、環境、コミュニティの結束力という多元的、社会的・経済的要素を基軸にすえる。そのうえに個別経営、商店街そして少子・高齢化問題を抱える日本の社会・経済を活性化させるため、商店街が果たす課題は多い。これを基礎に、地方自治体支援策を、ぶら下がり型ではなく、主体的支援方策として「協働」的に活用する方向を提起する。
 それは決して空理空論ではなく、よく見つめてみれば多くの既存のインフラストラクチュアがすでに存在しているという。たとえば、商店街のサポーターとして、「NPOや婦人団体、福祉団体など地域社会の生活者が快適に暮らせることを願望する人や組織とのパートナーシップ(協働)」が大事であると指摘する(P44)。しかし問題は商店街を構成する主体、商店側にもある。たとえば、「商店街の不振を組合や役員の責任にして、自店の問題や消費者の声に目や耳をしっかりと向ける姿勢があまりに希薄ではなかったかと思われる。…-行政機関の会議で触れる議題の根本には、商人が立地する地域の中に根付く姿勢が感じられない」と指摘し、「ゴルフや旅行にはせっせと足を運ぶだけでは、商売はおろか、自店を取り巻く地域の生活者の様子などには一向に関心もわかないであろう」と述べ、地域商人の主体的力量いかんが、「商店や商店街そして地域の課題解決とサステナビリティ(持続性)につながる道になると考えられる」と厳しい見解を述べる(P59)。ここに商店・商店街の存続・持続に向ける解決課題と主体的条件とのギャップをどのように埋め合わせるのかという課題が設定される。それは強力な地域商業進行のリーダー育成、政策支援、地域住民・市民組織との多面的連携、それを導き出す商店が抱える諸課題の協働的解決等を通じる一種の住民自治的行動と地方自治体の政策支援であると主張している。
 従来の商店街振興論における政府、地方自治体による上からの諸方策、あるいはそれを普及するためのハウトゥー的論議をも科学的俎上に上せ、しかも筆者たちが主張する地域社会における商店街が持つプラットホーム機能を現代的に実現する具体的方向を意欲的に提起している。しかし、"これで納得"というわけにもいかない。すでに筆者たちが気づいている、いくつか基本的な研究課題がある。
 そのひとつは、「大量生産・大量消費の過程で構築された川上型の産業構造の限界が、地域商業の末端で根付いていた商店街の存続危機という形で現れた」(P193)。とするならば、商店街振興は、国家レベル、国際レベルの産業政策との調整を要する。
 そのうえ土地利用、交通体系を長期安定的に維持し、商業空間の活性化を生む社会的基盤整備が必要である。この対応策は"ぶら下がり姿勢"ではない。ちなみに生鮮三品小売業の空き店舗化の要因は、鮮魚、野菜、食肉の海外依存と商社・大型店による中小卸売、小売商業の排除、なかでも中央・地方市場における仲買商の倒産・廃業と一体の現象である。消費者、中小企業家層の存立条件改善と商店街再生問題とが不可分であろう。 
 また、中小企業家の養成・育成は、今日最重要で、喫緊の課題である。だが後継ぎ難現象の背後には経営困難がある。アンドゥルプルヌール・シップ一(企業家精神)一教育の課題に加え、経済・経営に関する新しい知識で武装することを公共政策とするヨーロッパにおけるEU小企業憲章のような取り組み(ビジネス教育の義務化など)に通じる社会制度化論議が根本となる。主体形成論議テーマがまだたくさんある。次の研究が期待される。

(創風社・定価二五二〇円=税込)(ながやまとしかず・日本大学教授)
(『経済』2004 NO.107新日本出版社)

   

  今春政府に送った抗議の詩集が本に  

8歳から90歳まで全国から313編

 今春、イラク戦争に抗議するため、全国の詩人たちが政府に送った反戦の詩集が、このほど1冊の本になった。「反戦アンデパンダ'ン詩集2003年詩人たちは呼びかけ合う」=写真。東京・本郷の創風社が発行した。A5判ハードカバー、325エ、2400円。全国の書店で取り扱う。詩人の石川逗子、木鳥始、甲田四郎、佐川亜紀の各氏の呼びかけで始まった反戦詩の取り組みには、ほぼ20日間で313編が集まり、4月15日、内閣府に提出された。詩を寄せたのは、日本現代詩人会や日本詩人クラブの理事を務めるベテランから、初心者まで。年齢も8歳から90歳までと幅広い。詩の数々は既に各地の朗読会や展示などで紹介され、平和教育に活用されている。

東京新聞 2003年 7月26日

鈴木賢二作品多くの人に

四女が展示室を再開

栃木市出身の彫刻・版画家

【栃木】市出身の彫刻家で版画家の鈴木賢二(一九〇六-八七年)の作品を多くの人たちに知ってもらおうと、四女の鈴木解子さん(五七)=富士見町が、自宅隣に作品展示室を再開した。二十一年前に、母のよしさんが開設したものの、わずか二年で公開を止めていた。解子さんは「父の作品を大事に守ってきた母の思いを引き継ぎたかった」と話している。

母の遺志継ぎ20年ぶり実現

賢二は旧制栃木中から東京美術学校(現東京芸大)に入り、高村光雲に彫刻を学んだ。プロレタリア芸術運動にかかわり、戦後も農民や労働者ら庶民の日常を描いた木版画を制作し続けた。展示室の名は「如輪房」。解子さんが喫茶室を営む自宅南側の建物の二階にあり、広さは約三十五平方メートル。建物壁面には代表作を益子焼の陶板に焼き込んだレリーフがはめ込んである。
 よしさんは八二年ごろ、賢二作品の保管、展示を目的に展示室を開設。その後夫の介護に追われ、自身も病に倒れたため、「約二十年間本来の目的を果たさないまま、長い月日がたってしまった」(解子さん)。
 解子さんは父が残した作品を顕彰団体である「鈴木賢二研究会」の仲間と展覧会を開くなどして管理してきた。よしさんも二年前に亡くなり、その遺志を継いで展示室を修繕し再開することにした。「賢二の生誕百年が三年後に迫り、展示替えをしながら整理していきたい」と話している。賢二の残した作品は彫刻や益子焼、スケッチ、版画など数千点に及ぶ。その中から子や孫をおぶったかつての日本人の姿を彫った作品など二十四点を選び「おんぶ・夏・母と子」と題した開室記念展を開催している。入物無料。午後一時から同六時まで。金曜定休。問い合わせは如輪房エ0282・24・9283へ。

核燃料サイクル施設問題青森県民情報センター「核燃問題情報」 第98号
父の遺作と思い出を版画集に

作品に随想を添えて
物売りの声がきこえる
栃木の鈴木解子さん

 父が遺した版画に新たな息吹きを――。栃木市内で喫茶店「じょりんぼ」を経営する鈴木解子さん(56)=同市富士見町=がこのほど、鈴木賢二版画集「物売りの声がきこえる」を出版した。父賢二さんは同市出身の彫刻・版画家。64年に脳こうそくで倒れ、利き手の右手の機能を失いながら、87年に81歳で亡くなるまで左手だけで彫り続けた木版画110点に、解子さんの随想を添えている。

 版画集は「街角の風景」「家族」など全6章。大正から昭和初期によく見られた「しゃぼん玉売り」「ほたるや」などの物売りや、「猿回し」「娘義太夫」などの芸人らの姿が描かれ、売り声や子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきそうな作品ばかり。「記憶の風景」という副題の通り、賢二さんと解子さんが共有した楽しかった思い出が重なっている。賢二さんは栃木中(現栃木高)を卒業後、1925年に東京美術学校(現東京芸大)彫刻科に入学。高村光雲らに学ぶ一方、中野重治らのプロレタリア芸術運動に関心を持った。校内で軍事教練に反対するビラをまいて退学した後も、漫画や新聞小説の挿絵を描いた。
 33年に県内に戻ってから彫刻や版画に本格的に取り組み、東京に居を移した60年以降、日本の現代版画をキューバやインドネシア、ブルガリアなどに広める運動にもかかわった。病に倒れた後、右手が利かず、会話も十分にできなくなったが、左手で創作活動を再開した。
 そんな父を温かいまなざしで見つめた解子さんは「作品から感じた気持ちを飾らずに言葉に託しました。手に取る人がそれぞれ持っている懐かしい世界が広がればうれしい」と話す。
定価1800円(消費税別)。間い合わせは創風社TEL 03-3818-4161。
【熊谷洋】

2002年11月9日 毎日新聞栃木版

教師のライフコース研究 山崎準ニ著

戦後社会を各世代はどう生きたか

 本書は十年余の調査研究から、幅四十年にわたる各世代の教師が、どう仕事と力量形成にとり組み、その発達・危機・変化を体験したかを探究する。対象は静岡大学・同窓会名簿から選んだ静岡県の公立小中学校教師
だが、内容は日本の教師が戦後社会をどう生きたかを浮かび上がらせる好著である。たとえば
 @世代の差が鮮明である。教職選択に影響を与えた本・映画などで、戦前〜一九六〇年生まれ世代が「二十四の瞳」、それ以降生まれは「金八先生」である。また戦後民主教育で育った世代が前・後世代に比べ、権利意識もサークル活動も際立っている。
 A女性教師は主任・教頭・校長になる比率で男性と差がひどい。結婚すると生活でも、力量向上努力量でも、教師人生のジェンダーバイアスは大きい。
 B「優れた先輩との出会い」「同僚のアドバイス」「職場の雰囲気」などが、各人の教育実践の変化・向上に強く作用すると統計とインタビューの結果が出ている。こうしたインフォーマルな教師発達サポート機能が、その後の政策によって制度化され形骸化したことへの批判分析は本書のハイライトである。
 C中堅から年輩教師になる頃「実践家を貫く」「実践から離脱し管理者に」「学校づくりという実践レベルを見出す」といった分化が起きる。「仕事に生きがいを失った」の回答が四十代後半からである点に、指導主事・教頭・校長への昇進がはらむ教師の危機が示されている。
 Dその他、障害児教育担当がもたらした子ども観・教育観の転換、自分の子どもを持ったことの影響など、教師人生の重要な諸側面が世代・時代に重なって浮かび上がっている。
 「教師のライフコース」という枠組みは「経験とともに教師が成長する」という視点が強いという印象も持つが、その問題は本書が明らかにした教師人生の現実が克服している。いずれにせよ、教師と教師研究を志す人にはぜひ一読を勧めたい。

久冨善之・一橋大学教授

やまざき・じゅんじ=一九五三年生まれ。静岡大学教授。教育内容・方法論・教師教育論。

11/4日赤旗より

既刊案内へ

大人のための児童文学
木島始『ぼくらのペガサス』『飛ぶ声をおぼえる』評「交野が原」52号
満谷マーガレット

「子供だまし」という言葉があるように、子供はだましやすいと思っている大人が多いようだ。しかし、「裸の王様」の話しに見られるように、大人の方がずっと騙されやすいこともある。もっとも弱い立場にいるはずの子供が、王様の嘘やごまかしを見抜く話が大人にとって爽快なのは、権力者の言葉にふりまわされている大人たちが子供の物語でしか出会えない健全でラジカルな常識に飢えているからだろう――たとえそれが大人社会の現実には通用しないとわかっていても。
『ぼくらのペガサス』という物語に、そうしたラジカルな常識は生きている。原爆の光線で目がくらんで飛べなくなった天馬のために、カンイチ少年は動物仲間と力を台わせて、「ピカドン止メサセロ」と総理大臣に訴えかける。太陽を奪うことで大人たちから原爆を飛ばさない約束を引き出す、というのは奇想天外な結末だが、物語全体が現実離れしているわけではない。例えば、カンイチくんたちのメッセージを持ってきたヒヨドリのピッピーに昼寝を邪魔された総理大臣が「ネゴトヲイウンデナイ、ワシャイソガシインダ」とうそぶきながらまた寝てしまう場面は、「唯一の被爆国」の戦後政治における倦怠と無力を浮き彫りにしている。「ぼくらのべガサス」が書かれた一九六六年の時点で、天馬が再び飛べるようになったものの、カンイチくんたちはまだ安心できないでいた。彼らの活躍が今もって必要だとというのは悲しいことだ。
 なお、この本には表題作以外に物語が四つ、詩が三篇、エッセイが二つ入っているが、著者自身があのキノコ雲を見るにいたった経緯を描くエッセイ「十五歳の分かれ道」を『ぼくらのペガサス』と読み合わせると興味深い。著者がこのエッセイの中で言及している、戦争に散った同級生を描いた小説『春の犠牲』が再販されることを、筆者は願う。
 もう一つのエッセイは「迎え入れたお客さん」と題されているが、タイトルの「お客さん」はヒミコの時代に中国から渡ってきた漢字であり、そこから生まれた本である。大事な「お客さん」なのに売れ残ったものを裁断し、紙屑にしてしまう出版社は、やはり「健全な常識」をどこかに置き忘れてきたといっていい。このエッセイには本にささげた四行詩が四つ入っているが、一つだけ引用したい。

   倒れるまでの ものすごい
   旅のかずかず 話してくれる
   本という本は 人待ち顔して
   静まりかえった お客さんだ

 さて、『飛ぶ声をおぼえる』ほ恐竜の詩で幕を開け、その末裔である小鳥で終わる。「恐竜のたましい」という詩には、子供たちの生の声が聞こえてくる。「いかついなあ! うおっきいなあ! /こわあい きみっるー いきてるの?」子供たちを惹きつけて止まないのは恐竜だが、その「たましい」を引き継いだ小鳥こそ「あっぱれ と称えたい生きもの」なのだ。彼らは私たちにいろんなことを教えてくれる。巻末の詩「小さな鳥へのほめうた」は残念ながら教科書には載りそうにないから、第二聯をここに引用しておく。

   ひばりはいばりやか?
   ノー… たらたらごじまん   
   いばりやなんか ひばりは
   ちっぽけく たまげさせるさ

「マヨイノもりの五つのむかしばなし」には大変な「いばりや」が登場する。ヒフミ村で刀を持つことを許されたただ一人の侍ゴロベエがその人だが、彼はお箸を徳利につけこんで、その先をなめることで、お酒を「飲む」ほどのけちんぼでもある。ゴロベエは村外れのマヨイノ森のなかで迷いにまよって、子供のシロウとヤエとの知恵比べにも負かされてばかりいる。五つ目の話「レンギョさま」には、そんな利口な子供たちさえ捕まえられない「ふしぎないきもの」が登場するところが、またいい。ハスの花をおしひらくこの「ふしぎないきもの」を誰も見たことがないのに、ヒフミ村の住民は皆その存在を信じて疑わない。昭和三十年代を舞台にした「おばけを見に行く」という話では、大人たちのおそれるお化けの正体を子供たちがあっさりとつきとめてしまう。戦後の生活は明るくなったが、「不思議な生きもの」が潜む蔭の意味合いがめっきり減ったようだ。
 不思議な物語をもう一つ紹介しよう。「ヒマラヤの笛」は二冊を通じて唯一の翻訳で、「あとがき」によると原作者のA・ラマチャンドランはインドの独創的な画家だ。この話は一度絵本として出版されたというが、絵はなくとも活字を追いながら、魔法の笛によって美しい花園に生まれ変わった貧しい畑の様子を想像され、それはそれで充分楽しい。
 不思議な生き物といえば、誰でも思い浮かべるのは竜だろう。「かくれ竜のはなし」は、タツドシの著者が自分の干支を廻る回想から始まる。幼い頃、「タヅドシやから…」とその意味も判らないまま、ある性格を押しつけられた気持ちになって当惑した著者は、日本が軍国主義に染まる頃に中学生となった。号令に振り回されているうちにある日突然、ふざける同級生に暴力を揮った時、誰よりも自分が驚いたという。残忍で強暴な竜はすべての人間の内部に潜んでいて、状況しだいでそれがひょっこり顔を出す。「かくれ竜」の本当の恐ろしさは、ここにある。しかし、視野をアジア全体に広げると、さまざまな竜が見えてくる。踊り出すと「めでたい五色の雲」が浮かび上がる中国の竜。そして獄中のホー・チ・ミンが書いた字謎の漢詩(籠=竹の牢)に隠された竜。さて、これからどちらの竜が動き出すのだろうか。
 この二冊には、本島始の遊び心がいっぱいつまっている。それは、しかしキマジメなどこまでも詩人の遊びだ。機智とユーモアをしっかり解する読者にめぐりあい、騙されやすい大人が一人でも減れば、と心から願う次第である。

「続・生きること学ぶこと」沖縄タイムス02.4.27

本書は、編著者の清水寛・埼玉大学教育学部教授(今年三月定年で退職)が「障害児教育概論」の授業で取り入れたゲストたちの講話集である。二十二人のゲストは、自身や家族がハンディキャップ(障碍)に直面し、苦難と向き合って生きてきた人たち。
 ハンセン病回復者、重度脳性まひ、視覚障害者、超重度障碍児や自閉症児の親、入院児童の訪問教育、盲・ろう、心身障碍学級などでの表現活動教育、韓国で植民地時代の「日の丸抹消事件」をテーマに授業した日本人教師、三十七年間かかわった夜間中学教師、非行少年とかかわる救護院職員、在日韓国人二世らの肉声を二段組五百五十ページに収めた大冊だ。
 目を通すと、本の厚さを感じさせないほどに読み進んでいく。ゲストのリアルな生活体験と、生まれでた「命」の尊さを実感させる人間愛にあふれた内容にひきつけられていく。事故で後天的に脳障害を受けた息子を在宅で世話する母親は「なにもしゃべれない状態ですが、海くんの生命と向き合って暮らせる喜びというか、…無駄な価値のない生命というのはないんじゃないかと思う」と述べる。この記述には、論議のある生命と尊厳について考えさせられる。
 沖縄とのかかわりではハンセン病回復者、視覚障害、教育のため本土に移った自閉症児の親らが登場。平和教育の場として存在などが取り上げられ、沖縄の社会状況にも関心が向けられている。講話後の学生と講師のキャッチボール(感想文)も本書を深め、興味深いものにしている。
 小児がんで十一歳の息子を亡くした母親はつづっている。「浩一よ、苦しみも代わってやれず励ますのみの無力なママを許してください。…天国でもみんなから愛されますように。またいつしか会える日までさようなら。」早世した、いとし子と肉親らの再会と語らいのために「あの世」はあってほしい。この本を手にして私の小さな世界観は変わった。
 (沖縄タイムス記者・謝花勝一)

障害児教育の過去と現在

 戦火が激しくなった昭和十九年当時、東京市立光明学校(現東京都立光明養護学校)に寄宿していた生徒と教職員は、校庭の隅に大きな防空壕を掘り「現地疎開」していた。普通学校と違い、同校には疎開先が割り当てられなかったためだ。その後、松本保平校長が奔走し、佐藤彪也教諭など当時の教職員が医療器具を抱え長野に疎開した。校舎のほとんどが空襲で焼けたのは、その十日後だった。

 本書にはこうした障害児教育について、戦時下の学校の姿や、現在の学校・学級での実践、親の取り組み、海外の教育現場など、当事者によるさまざまな講話が収められている。全国障害者問題研究会の委員長を務めていた編著者が、埼玉大学教育学部の「障害児教育学概論」で行ったゲスト講話二十三編を一冊にまとめた。
 本書には障害児教育だけでなく、児童自立支援施設や夜間中学の教職員、在日韓国
人二世、ハンセン病回復者ら、さまざまな立場からの貴重な講話も収録している。教員を目指す学生に、広い視野を持ってほしいと願って企画された授業だったことが分かる。
 障害児教育の過去から現在を縦糸とすれば、それ以外の講話を横糸に編むことで、現在の教育や社会の一つの姿が浮かんでくる。
「障害児教育は教育の原点」という言葉が、改めて思い出される。(通)

2002年12月6日 日本教育新聞より

2001年11月7日 読売新愛知版

本の内容については新刊案内を参考にしてください

2001年10/23 朝日新聞茨城版

障害ある長男となき妻の日々
取手の板垣さん3回忌機に記録まとめる

振り返り人生に光

2年前、玄界灘に面した福岡県新宮町で、取手市の女性が車にはねられて亡くなった。板垣峰子さん(当時47)。重度障害児の長男がそこで手術を受けるため滞在していたときの出来事だった。妻は息子にどう向き合ったのか。峰子さんの3回忌を機に、夫の誠さん(55)がこのほど、長男の介護記録や亡き妻への思いを本にまとめた。

 長男の光さん(13)には、生まれたときから体全体の発育が遅い障害がある。話すことも、歩くこともできない。99年8月、車いすの光さんと買い物から帰る途中に、峰子さんは突然、後ろからはねられ、意識不明のまま4日後に亡くなった。光さんも一時、危険な状態だった。

「自分も一緒に行っていれば、こんなことにはならなかった」。誠さんは悔やみ、悩んだ。「自分一人で息子を育てられるのか。会社を辞めるのか。それとも息子を一生施設に入れるのか」利根川の土手を歩き、夕日を見て、峰子さんへの思いを詩に書きとめた。光さんを中心に様々な人たちとの交流を「広げた妻の姿を思い出し、内向きになっていた自分を省みた。一一あなたはひかるの声を聞き、ひかるの言葉を見たのですね。私にはまだひかるの言葉は見えません。だから、ひかるとしっかり向き合わなけれはならないんです一一

 本のタイトルは、『母の決断一一重度障害児と生き抜いた母の配録』当時のメモや手紙をもとに回想した光さんのリハビリや介護の記録で始まる。
一一3歳。「ようやく首がすわった」。9歳一ヵ月。「車いすに乗って自分の行きたいところへ曲がりながらも行けるようになった」。11歳6ヵ月。「峰子は『自分一人でひかるを連れていけるようになった』とみんなに自慢していた」一一
 今年3月、光さんは福岡県立福岡養護学校新光園分校小学部を卒業し、今、隣接する施設でリハビリに励んでいる。
 本には友人たちの言葉や専門医による障害児をめぐる保育の現状分析なども加えた。「障害児に対する偏見や不十分な受け入れ態勢についても、考えてもらえればありがたい」と誠さんは話している。A5判、134ページ。1500円。問い合わせは、創風杜(03・3818・4161)へ。