メディア掲載・関連書評 etc.2(創風社 Web紹介分のみ)

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富田満夫著『中高年 女性の腰痛』 (「新婦人新聞」,「赤旗」02/4/29)
村上善男著『赤い兎―岡本太郎頌』「師を鏡に著者うつる」2000/5/7 陸奥新報(PDF)
村上善男著『赤い兎―岡本太郎頌』「岡本太郎の縄文芸術観評価」2000/5/8 河北新報(PDF)
村上善男著『赤い兎―岡本太郎頌』「文章で書いた自画像」2000/5/18 岩手日報(PDF)
金倉義慧著『画家 大月源二』書評「小樽で育ったプロレタリア画家の伝記」『北海道新聞』2000年8月23日
「プロレタリア画家・大月源二の生涯」『赤旗』2000年9月4日



 

富田満夫さん

「この病気は年のせいでも気のせいでもない、自分で治せるんです。希望を持って治してほしい」―。治りにくいことで知られる女性特有の腰痛や肩こりなどの治療に、整形外科医として格闘してきて三十年。「一番つらかったのは、こんなに多くの女性が苦しんでいるのに、それまでの教科書的な治療で、治らなかったこと。今まで何をしてきたんだ…」と。
 女性の腰痛は四十歳から急増しますが、多くは骨の影響よりも、女性特有の生理機能やストレスに起因しているといいます。だから、患者さんとの話が、仕事や日常生活に及ぶことがしばしばです。治療は、身も心もリラックスする簡単な運動療法が基本です。
 長野県の佐久総合病院での研修のとき、院長から「カルテに職業を書かずに、どうして診察ができるのか」と、こっぴどく怒られたことが、その後の医療にとりくむ基本姿勢に。炭鉱の病院に赴任したとき、現場を見たいといって坑内に入り、「医者で、採炭の現場まで行ききったとは、あんたが初めてバイ」と労働者にいわれたことも。
 十年間の大病院勤務の後、「もっと医療を社会とのかかわりで実践したい」と診療所の第一線の医者の道へ。ざっくばらんな人柄から患者さんの信頼は絶対。患者さんの苦痛を、わが苦しみとする姿勢は、若い医者のお手本と評する人も。
 今、長崎市の大浦診療所の嘱託医師として、郷里の島原から遠距離通勤です。近著に『中高年女性におくるQ&A腰痛の治し方』(創風社)があります。
 文・写真 田中 康 2002年4月29日 赤旗

【旭川】旭川の元高校教諭金倉義慧さん(66)が小樽で育った画家大月源二氏(1904〜71年)の伝記「画家 大月源二―あるプロレタリア画家の生涯―」をまとめ、出版した。戦前はテロで殺された労農党の山本宣治の葬儀の模様を描くなどプロレタリア画家として知られ、戦後は北海道の風土や静物画を描く一方、平和運動にも活躍した画家の人生をいきいきと描き出している。
 大月氏は函館で出生、四歳で小樽に移り、旧制小樽中学(現在の小樽潮陵高)を経て、東京美術学校(現在の東京芸大)を卒業。当時の労農党の選挙ポスターや山本宣治の棺を担いで街頭を歩く人々を描いた油彩の代表作「告別(山宣葬)」を発表した。治安維持法違反での投獄も経験。作家小林多喜二とも親交があった。その一方で一九四三年には画壇の中心な絵画展「文展」で特選を受賞するなど、優れた画業を重ねてきた。戦後は小樽、札幌に庄み、静物画「たまねぎ」、風景画「十月の樹々」などの作品を残した。伝記では、中央画壇で認められながら北海道に戻り、画業を深めた人生を関係者への取材を通じて紹介。六〇年代には米軍の日高管内えりも町百人浜でのミサイル射撃場計画に反対するなど平和を愛した生きざまを描いている。金倉さんは、深川西高や空知管内の秩父別高で国語麟教師として勤務し、在職中から郷土の歴史をつづり、秩父別の屯田兵を描いた「遥かなる屯田兵」や「学園自治の旗-北海道深川西高の記録」などの著書がある。金倉さんは十年前、大月氏の「たまねぎ」を見て伝記執筆を始めた。「作品には求心的な魅力と強い精神性を感じた。誠実な生き方を伝えたかった」という。四六判三百二十二ペ?ジ、定価二千円。創風社刊。

『北海道新聞』2000年8月23日。

北海道出身のプロレタリア画家'大月源二(一九〇四〜一九七一年)。若い世代にほとんど知られず、画集すら出されていない大画家の生涯を、旭川市在住の金倉義慧(かなくら・ぎけい)さん(六こが、十年がかりで調べ、『画家大月源二1あるプロレタリア画家の生涯-』という本にまとめました。
金倉さんが、大月源二を初めて知ったのは、十数年前、旭川市内の古書店の壁に掛けられていた「たまねぎ」の絵と出あったこと。くわしい経過は、本の冒頭に書かれていますが、何度も絵を見ているうちに、存在感豊かな絵の不思議な魅力にとりつかれ、とうとう店の主人から絵を譲りうけたほど、好きになったといいます。
 

小林多喜二の影響をうけて


 大月源二は、函館に生まれ、少年時代に小樽に移り住んだとき、水彩画を通して同世代の小林多喜二を知ります。東京美術学校(現・東京芸大)で本格的な油絵技法を学んだ後も、多喜二の小説「一九二八年三月一五日」や「蟹工船」のためにカット、さし絵を描きました。

 金倉さんは、一九二〇年代にダダイズムヘの道を進みかけていた大月源二が、プロレタリア画家として成長していったのは、プロレタリア作家で、日本共産党員の小林多喜二の影響があったとみています。

 大月源二は、労働者のためにたたかっていた代議士・山本量治(山宣)が右翼に殺されたとき、暗殺現場にかけつけ、山宣のデススケッチをしたのち、その葬儀の様子を油絵に描き出しました。金色さんは、その「告別」(山宣葬)という作品が、大月源二の自己変革を示すものとして注目、本のカバー絵にも使用しています。

 「『告別』という絵を、後世に伝えなければいけないと思ったのが、本を書くきっかけなんです」(金倉さん)

「告別」の絵のなぞに迫って

 本では、「告別」の絵のなぞに迫りつつ、大月源二が多喜二の新聞連載小説「新女性気質」(のち『安子』と改題)のために描いたさし絵、オホーツク海沿岸で働く人たちの風景を描いた「いわし場」などの戦前の絵から、戦後、一九六年元旦の「赤旗」日曜版の一面を飾った「N牧場を守る旗の波」などの絵が数多く盛り込まれ、ちょっとした「画集」のようになっています。「大月源二を知る人は、年々少なくなっています。関係者に、いま聞いておかないといけない。ほかにも、調べて、掘り起こしておかなければいけないと思うんです」(同)

 戦後も、大月源二は、北海道の美術界をリードしながら、日本の米軍基地化に反対する六〇年安保闘争のなかで確信を深め、札幌市手稲区での住民運動、日本共産党の日常活動、平和と人権、生活や自然を守るたたかいに参加しながら、絵を描いてゆきました。高校で長年、国語教師をしてきた金倉さんは、大月源二を知る教え子と手紙でやりとりし、関係者を訪ねたり、遺族からスケッチブックを借りて、そこに残されたメモを読みこんだり、大月源二が描いた風景そのものを見にいったりしたといいます。「私は大月源二さんとは、一度も会ったことはないんです。しかし、彼が晩年に描いた『たまねぎ』を見ていると、訴えてくるものが実にたくさんあるんです」(同)三百二十二ページ、二千円、創風社。


『赤旗』2000年9月4日