メディア掲載・関連書評 etc.5(創風社 Web紹介分のみ)

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山崎準二著『教師のライフコース研究』02/11/4日赤旗より
鈴木解子『物売りの声がきこえる』「父の遺作と思い出を版画集に」2002年11月9日 毎日新聞栃木版
鈴木解子『物売りの声がきこえる』「鈴木賢二作品多くの人に 四女が展示室を再開」下野新聞03/7/3
『芳賀仭 画集』「芳賀氏の遺作初公開」2003 1月10日 石巻河北より
『反戦アンデパンダン詩集』「国際的な反戦詩運動に連なって 佐川亜紀一詩人一」『社会評論』no.135より

教師のライフコース研究 山崎準ニ著

戦後社会を各世代はどう生きたか

 本書は十年余の調査研究から、幅四十年にわたる各世代の教師が、どう仕事と力量形成にとり組み、その発達・危機・変化を体験したかを探究する。対象は静岡大学・同窓会名簿から選んだ静岡県の公立小中学校教師
だが、内容は日本の教師が戦後社会をどう生きたかを浮かび上がらせる好著である。たとえば
 @世代の差が鮮明である。教職選択に影響を与えた本・映画などで、戦前〜一九六〇年生まれ世代が「二十四の瞳」、それ以降生まれは「金八先生」である。また戦後民主教育で育った世代が前・後世代に比べ、権利意識もサークル活動も際立っている。
 A女性教師は主任・教頭・校長になる比率で男性と差がひどい。結婚すると生活でも、力量向上努力量でも、教師人生のジェンダーバイアスは大きい。
 B「優れた先輩との出会い」「同僚のアドバイス」「職場の雰囲気」などが、各人の教育実践の変化・向上に強く作用すると統計とインタビューの結果が出ている。こうしたインフォーマルな教師発達サポート機能が、その後の政策によって制度化され形骸化したことへの批判分析は本書のハイライトである。
 C中堅から年輩教師になる頃「実践家を貫く」「実践から離脱し管理者に」「学校づくりという実践レベルを見出す」といった分化が起きる。「仕事に生きがいを失った」の回答が四十代後半からである点に、指導主事・教頭・校長への昇進がはらむ教師の危機が示されている。
 Dその他、障害児教育担当がもたらした子ども観・教育観の転換、自分の子どもを持ったことの影響など、教師人生の重要な諸側面が世代・時代に重なって浮かび上がっている。
 「教師のライフコース」という枠組みは「経験とともに教師が成長する」という視点が強いという印象も持つが、その問題は本書が明らかにした教師人生の現実が克服している。いずれにせよ、教師と教師研究を志す人にはぜひ一読を勧めたい。

久冨善之・一橋大学教授

やまざき・じゅんじ=一九五三年生まれ。静岡大学教授。教育内容・方法論・教師教育論。

11/4日赤旗より

父の遺作と思い出を版画集に

作品に随想を添えて
物売りの声がきこえる
栃木の鈴木解子さん

 父が遺した版画に新たな息吹きを――。栃木市内で喫茶店「じょりんぼ」を経営する鈴木解子さん(56)=同市富士見町=がこのほど、鈴木賢二版画集「物売りの声がきこえる」を出版した。父賢二さんは同市出身の彫刻・版画家。64年に脳こうそくで倒れ、利き手の右手の機能を失いながら、87年に81歳で亡くなるまで左手だけで彫り続けた木版画110点に、解子さんの随想を添えている。

 版画集は「街角の風景」「家族」など全6章。大正から昭和初期によく見られた「しゃぼん玉売り」「ほたるや」などの物売りや、「猿回し」「娘義太夫」などの芸人らの姿が描かれ、売り声や子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきそうな作品ばかり。「記憶の風景」という副題の通り、賢二さんと解子さんが共有した楽しかった思い出が重なっている。賢二さんは栃木中(現栃木高)を卒業後、1925年に東京美術学校(現東京芸大)彫刻科に入学。高村光雲らに学ぶ一方、中野重治らのプロレタリア芸術運動に関心を持った。校内で軍事教練に反対するビラをまいて退学した後も、漫画や新聞小説の挿絵を描いた。
 33年に県内に戻ってから彫刻や版画に本格的に取り組み、東京に居を移した60年以降、日本の現代版画をキューバやインドネシア、ブルガリアなどに広める運動にもかかわった。病に倒れた後、右手が利かず、会話も十分にできなくなったが、左手で創作活動を再開した。
 そんな父を温かいまなざしで見つめた解子さんは「作品から感じた気持ちを飾らずに言葉に託しました。手に取る人がそれぞれ持っている懐かしい世界が広がればうれしい」と話す。
定価1800円(消費税別)。間い合わせは創風社TEL 03-3818-4161。
【熊谷洋】

2002年11月9日 毎日新聞栃木版

鈴木賢二作品多くの人に

四女が展示室を再開


栃木市出身の彫刻・版画家

【栃木】市出身の彫刻家で版画家の鈴木賢二(一九〇六-八七年)の作品を多くの人たちに知ってもらおうと、四女の鈴木解子さん(五七)=富士見町が、自宅隣に作品展示室を再開した。二十一年前に、母のよしさんが開設したものの、わずか二年で公開を止めていた。解子さんは「父の作品を大事に守ってきた母の思いを引き継ぎたかった」と話している。


母の遺志継ぎ20年ぶり実現


賢二は旧制栃木中から東京美術学校(現東京芸大)に入り、高村光雲に彫刻を学んだ。プロレタリア芸術運動にかかわり、戦後も農民や労働者ら庶民の日常を描いた木版画を制作し続けた。展示室の名は「如輪房」。解子さんが喫茶室を営む自宅南側の建物の二階にあり、広さは約三十五平方メートル。建物壁面には代表作を益子焼の陶板に焼き込んだレリーフがはめ込んである。
 よしさんは八二年ごろ、賢二作品の保管、展示を目的に展示室を開設。その後夫の介護に追われ、自身も病に倒れたため、「約二十年間本来の目的を果たさないまま、長い月日がたってしまった」(解子さん)。
 解子さんは父が残した作品を顕彰団体である「鈴木賢二研究会」の仲間と展覧会を開くなどして管理してきた。よしさんも二年前に亡くなり、その遺志を継いで展示室を修繕し再開することにした。「賢二の生誕百年が三年後に迫り、展示替えをしながら整理していきたい」と話している。賢二の残した作品は彫刻や益子焼、スケッチ、版画など数千点に及ぶ。その中から子や孫をおぶったかつての日本人の姿を彫った作品など二十四点を選び「おんぶ・夏・母と子」と題した開室記念展を開催している。入物無料。午後一時から同六時まで。金曜定休。問い合わせは如輪房エ0282・24・9283へ。

芳賀氏の遺作初公開

前期 系統の声名、浅井両氏も

 石巻文化センターが所蔵している作品の展示会が、十五日から同センターで開かれる。油絵とスケッチに絞った所蔵作品展で、前期と後期に分けて開催。前期では、石巻市生まれでプロレタリア美術に才能を発揮し、戦後は少年誌に児童画を連載した芳賀仭氏(はが・たかし、一九〇九-六三)の作品が初めて公開される。絵画ファンにとって見逃せない所蔵作品展になりそうだ。入場無料

 前期は十五日から二月十三日まで開催。芳賀のほか、石巻地方の洋画発展に尽くした芦名忠雄(一九一六-九五、白石市生まれ)、現在、活躍中の河北美術展招待作家・浅井元義(一九三八-、石巻市生まれ、松島町在住)三氏の作品合わせて約七十五点が展示される。

 中でも芳賀氏の作品は初めて公開される。戦前から戦時中にかけて芸術家の卵らが集まった東京・池袋で芳賀氏はプロレタリア美術に傾倒。所蔵作品展では「待つ労働者」や「荷を背負う人」などが展示されるのをはじめ、「石巻風景」「海」といった作品が見られる。いずれも油彩で九点。ほかに「素描・網地島」などスケッチ十点が紹介される。
 芳賀氏は戦火が激しくなった一九四二(昭和十七)年に石巻に疎開。戦後の四八年、市内の美術仲間と洋画グループ「赤土会」を結成するが、その時のメンバーの一人が芦名氏で、石巻公民館を拠点に活動、石巻市に洋画の花を咲かせた。所蔵作品展では芦名氏が五六年に制作した「港」一点(油彩)が展示される。その赤土会の精神を受け継いで「グループ新赤土」「黄土展」を結成したのが浅井氏で、今回は石巻かほくに連載したスケッチ石巻「古い家並み」「通り・横町・小路」シリーズから四十五点が並べられる。
 前期の所蔵作品展には、昭和から平成にかけての石巻地方の美術界を代表する三人の競作展といった趣もある。
 後期は二月十八日から三月二十三日まで。漆絵の第一人者の太斎春夫氏(一九〇七-四四、仙台市生まれ。日曜写生会の生みの親・太斎惇氏の弟)や、先ごろ死去した河北美術展顧問だった小松鬼志雄氏(一九一五-二〇〇三、石巻市生まれ)ら七人の作品を予定している。
 所蔵作品展は、同センターの収集活動の成果を市民に広く知ってもらうのを目的に、内容を替えて不定期に開催してきている。


2003 1月10日 石巻河北より

写真は初公開される芳賀仭氏の作品「荷を背負う人」(油彩、1950-56年制作)

国際的な反戦詩運動に連なって

佐川亜紀一詩人一

 私が言うまでもないが、日本は今かなり危なくなっている。ブッシュ大統領の大義無きイラク戦争に荷担するばかりか、有事三法の成立、自衛隊派遣、果ては憲法の改悪まで行きそうな雰囲気である。
 で、本当に恐ろしいのは、これだけ戦後の平和思想がなし崩しに壊されているのに、批判の声が小さく、高まらないことである。日本の現代詩は戦後詩とほぼ同義であり、無思想で死を讃える美学を否定し、自己陶酔ではなく「拝情の科学」を目指していたので、日本人の美の快感気質から外れ異端であったが、その抵抗精神もバブル経済以後薄れていた。
 イラク戦争を行なったアメリカではインターネットによる国際的な新しい反戦詩運動が生まれた。最大の運動は、日本文化にも通じているアメリカの詩人・編集者サム.ハミル氏が「Poets Against the War」(戦争に反対する詩人たち一(http://www.poetsagainstthewar)のサイトを立ち上げ、イラク戦争に反対する詩と文をアメリカ全土と全世界から募った。約一か月で一万五千編の詩が集まり、三月五日「反戦詩の日」に米国議会に提出され、イギリスでも一万編が同日ブレア首相に提出された。イギリス、カナダ、オーストラリア、ベトナム、ポルトガル、フランスなどでも連帯する反戦詩のサイトが開かれていった。
 日本にもハミル氏の呼びかけが伝わり、詩人の本島始さんが寄稿し、創風社のHP「木島始の部屋」で公開された。私も重要な運動だと思い「佐川亜紀のホーム・ページ」に呼びかけと訳詩、木島さんの詩を載せ始めた。『毎日新聞』『北海道新聞』「日本ペンクラブ文藝館」『すばる四月号』『しんぶん赤旗』などでも紹介されていった。
 「三月五日を反戦詩の日に」の提案に応じ、ベトナム戦争経験者で青山学院大学教員のパウンズ氏らが渋谷で朗読会を開き、日本でも反戦詩を集めて政府に提出しようと呼びかけ、私にもメールが届いた。
 反戦詩運動をする力もないので、しばらく迷っていたが、何も言わないと日本全体が武力行使を支持していると思われかねない、韓国ではアフガン攻撃反対で詩人も含め文人たちの声明が出ているのに、何かアピールしないとまずいと思い、木島始さん石川逸子さん、甲田四郎さんに相談し、最初の呼びかけ人になってもらい反戦詩集編集委員会として三月十九日から日本でも詩篇を集めることにした。
 四月四日には、集まり始めた詩篇を公開するHP「戦争に反対する詩のぺ-ジ」(http://www2u.biglobe.ne.jp)を日本語と英語で立ち上げネットでも呼びかけた。HPを開設している人やネット詩人も広めてくださった。
 四月十日の締め切りまでに二八七編の参加があり、呼びかけ人八二名のうち一〇人が一五日に内閣府に出向き、小泉首相あてに提出し、四月十八日には、英訳を頂いた三十編をブッシュ米大統領とブレア英首相に送った。四月二十五日には、英訳と他言語訳六〇編を国連とユネスコに郵送した。『東京新聞』、『朝日新聞』、『中日新聞』、『しんぶん赤旗』でも紹介され、月刊詩誌『詩学』六月号で小特集、『詩と思想』九月号で米・日の反戦詩特集が組まれた。
 締め切り後も参加があり、最終的に三一三編となり、『反戦アンデパンダン詩集―2003年詩人たちは呼びかけ合う―』として創風社から出版していただいた。一般書店で購入可能。世代も詩法もさまざまなユニークな反戦詩集になった。最高齢は原爆詩人として著名な栗原貞子さん、最年少は小学三年の木村としたろう君。在日韓国人・朝鮮人詩人八名・在日米詩人一名が参加。本を発行した段階で私たちの反戦詩集編集委員会は解散したが、参加した亀田道昭さんが、「人間の盾」活動をされた方の講演会で詩を展示し、伊藤芳博さんは八月にパレスチナに行き「世界の子どものための平和祭」で英訳された詩や英文アピールを発表など、それぞれの平和活動、創作活動を続けている。HPには神戸の中学生から平和教育のレポートに引用したいとメールがあった。米国・韓国・台湾の詩人に贈呈し、早速台湾の詩人・陳千武氏より共感の手紙を頂いた。広島平和記念資料館や日本現代詩歌文学館その他多くで登録保存されることになった。
 アメリカの運動は現在も続き、私も英訳して頂いた詩を寄稿した。サム・ハミル氏の熱意は相当なもので、HPのトップに出る声明文も普遍性・説得力を感じる。反戦詩集には昔から批判もあるが、こうして草の根で国境を超えて声を交わすことは今ますます大事だと思う。ささやかながら時代の流れに異議を唱えた日本の詩人たちの反戦の思いと証言をお読みください。


『社会評論』no.135より